『胡同のひまわり』

中国が改革開放政策で飛躍的な経済成長を遂げて以来、一定の制約があるものの中国映画は表現の幅を徐々に広げ、扱う題材も随分多彩になってきた。その結果、中国映画は世界の中でも重要な地位を占め、アン・リーのように渡米してアカデミー監督賞を取るような人材まで輩出するようになった。
スターリンの死後、いわゆる“雪解け”によって表現の自由が拡大したソ連映画にも、一時期『戦争と貞操』『誓いの休暇』『女狙撃兵マリュートカ』などを生み出した時代があったけれども、現代中国映画の奔流は当時のソ連映画とは比べものにならないくらい大規模かつ本格的。
ヴェトナム戦争アメリカ映画に大きな痕跡を残したのと同じくらい、文化大革命は中国映画に多大の影響を与えている。
たとえば『単騎、千里を走る。』の張藝謀(チャン・イーモウ)の作品では、カメラマンとして参加した『黄色い大地』から最近の『活きる』や『初恋のきた道』に至るまで、文革を抜きには語れないものが多い。また張藝謀よりひとまわり年長の謝晋(シエ・チン)監督作品にも、隣人同士が互いに密告し裏切り合う悲惨な文革時代を生き抜く女性が主人公の『芙蓉鎮』という傑作があった。
張藝謀自身、文革による下放によって青春時代のある時期を奪われてしまった世代(いわゆる“第五世代”)に属するから、文革というのは、決して忘れることのできない苦痛と悔恨に満ちた時代である。そうした世代独特の思いが、張藝謀作品に影を落としている。
最近では『小さな中国のお針子』という作品が下放を扱っていたけれど、この作品では、文革時代は懐かしい青春時代の思い出の一齣(下放された青年の山村での恋)として描かれていて、張藝謀作品とは随分違った印象を受けた。
胡同のひまわり』もよく似たところがあって、文革は、強制労働から六年ぶりに帰郷した父親を見る主人公の少年の視線で描かれる。監督の張楊チャン・ヤン)は、張藝謀よりひとまわり以上も若く、謝晋とは親子ほども離れた世代に属する。だから、文革を描く視点にも、謝晋や張藝謀ら先輩世代のそれとは相当な隔たりがある。
主人公の少年にとって、文革の時代は、胡同の屋根に上って悪戯していた少年時代の、ある種甘美でオブラートにくるまれた懐かしい思い出であって、文革はあくまで父親の世代が経験した遠い世界の出来事に過ぎない。
世代的にはワタシはすでに少年の父親の方に近い。だから『胡同のひまわり』で心動かされたのは老父の挿話。
1999年、新しいアパートに移り住んだ老妻と別居してひとり胡同(北京の古い町並み)に残った老父は、四合院(中庭のある口の字型の住まい)の中庭にしつらえられた大きな将棋板で、隣人と互いに留守の間を狙って対局する。老父は、かつて文革時代に自分を密告した隣人をどうしても許すことができない。しかし、今ふたりはともに年老いてお互い一人暮らしの身。話し相手もいない。ふたりは言葉を交わすこともなく、対局によって意思を通じ合う。
その隣人もやがてひっそりと死ぬ(いわゆる孤独死)。一億人いると言われる高齢者の問題は、中国にとっても大きな社会問題なのだろう。『胡同のひまわり』の終盤近く、文革世代(日本で言えば団塊の世代にあたる)の高齢化を目前に控えた北京の街で、思い思いに過ごす高齢者たちの姿が記録映像で捉えられている。
もうひとつ心に残ったのは野良猫たち。
老父は、胡同に暮らす野良猫に毎日餌をやっている。ところが北京オリンピックに向けて胡同の街でも再開発が着々と進み、四合院も壊されている。いつの間にか猫はどこかへ消える。老父は餌をやるのを諦める。
この挿話で尾道を思い出した。尾道は狭く急な坂だらけの街。自動車は入れない。そんな尾道の路地裏を闊歩していたのは、猫、猫、猫・・・・。自動車に轢かれる心配のない路地裏は、猫にとって天国だったのだろう。再開発で取り壊された胡同の街は、もはや猫にとって安寧の地ではなくなった。猫の消えた街での暮らしがどういう意味を持つのか、ふと考えたりした。
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