『ビヨンドtheシー』

たとえば『グレン・ミラー物語』『ベニイ・グッドマン物語』『愛情物語』『バード』など、音楽家の伝記映画はたくさんあるけれど、歌手の伝記映画となるとそれほど多くはないのじゃないか。
一般的に歌手の顔は広く知られているものだから、役者が本人に似ていなかったりすると観客が違和感を持ちやすい。第一、歌手の歌声を完璧に再現するのは、楽器の演奏を真似るよりはるかに難しいと思う。だから歌手の伝記映画では、たとえば『ジョルスン物語』のように、全部本人の吹き替えを使ったりする。
ところが何と『ビヨンドtheシー』では、ケヴィン・スペイシーが全曲を吹き替えなしで歌ってしまう! これには驚いた。しかも恐ろしく似ている瞬間があり、とても上手い!
六十年代の前半、まだ十歳にもなっていなかったワタシは、トシの離れた従兄に手ほどきを受けてポピュラー音楽のLPをいっぱい聴いていた。当時アメリカのポピュラー・ミュージック界には、パット・ブーンアンディ・ウィリアムスなど人気歌手がたくさんいて、もちろんシナトラやディーン・マーティンも健在だった。
“Mack the Knife”はそんな環境の中で聴いていた曲のひとつだったけれど、ボビー・ダーリンのことは実はあまりよく知らない。映画でも描かれていたように、決して超一流とは言えなかった彼が、意外に早く忘れ去られてしまったからかもしれない。
そのボビー・ダーリンの生涯を、製作・脚本・監督・主演までして映画を撮ってしまうスペイシーの執念と根性にはすっかり脱帽してしまった。歌、踊り、ドラマのどれもが素晴らしく、音楽映画の歴史に新たな一本が加わった、というのが偽らざる感想。
蛇足ながら、“Beyond the Sea”が“La Mer”の英語題名だというこを、この映画で初めて知ったしだい。