『山猫』

手元の古い資料によると、『山猫』の日本初公開は64年1月。海外配給権を持っていた二十世紀フォックス社が製作した英語版で、オリジナル版より三十八分も短く、しかも三十五mmという不完全なものだったらしい(まだ十歳にも満たないワタシは当然見ていない)。
その年のキネマ旬報ベストテンでは11位にランク。死後、神格化に近い崇拝を集めているヴィスコンティの作品としては極めて低い評価と言える。けれど、これが公開当時の彼に対する評価のひとつの目安ではないだろうか。当時日本で公開されていたヴィスコンティ作品は、オムニバスを除くと『夏の嵐』『白夜』『若者のすべて』の三本のみ。『山猫』は四本目に過ぎない。
ヴィスコンティは、そのキャリアをネオレアリスモからスタートさせている。ネオレアリスモといえば、何と言ってもロベルト・ロッセリーニヴィットリオ・デ・シーカなど、終戦直後から実績を築き上げていた巨匠たちがいる。彼らに比べると、ヴィスコンティの日本への紹介は大きく遅れた。
『夏の嵐』や『白夜』が公開された五十年代の後半、すでにネオレアリスモは終息し、ロッセリーニもデ・シーカも過去の作家になってしまっていた。何の予備知識もなければ、『夏の嵐』や『白夜』を見ただけでは、これがネオレアリスモ出身の作家の映画だとは誰も思わない。
『夏の嵐』『白夜』の日本公開から何年も経たない頃、ネオレアリスモに強い影響を受けたヌーヴェル・ヴァーグが日本にどっと押し寄せた。トリュフォーの『突然炎のごとく』やゴダールの『女と男のいる舗道』といったヌーヴェル・ヴァーグの最も高い波は、日本ではちょうど『山猫』と相前後するように公開されている。世間の耳目は当然ゴダールトリュフォーに集まっただろう。『山猫』は、その高い波に完全に呑み込まれたかっこうになった。
日本でのヴィスコンティに対する本格的な評価の始まりは、ヌーヴェル・ヴァーグの衰退後、『地獄に堕ちた勇者ども』と『ベニスに死す』公開あたりからだろうか(ワタシがリアルタイムで彼の映画を見るようになったのもこの時期から)。
そして76年に彼が世を去ると、いよいよブームは加熱。『郵便配達は二度ベルを鳴らす』『揺れる大地』『ベリッシマ』『熊座の淡き星影』など未公開のままだった旧作や、『家族の肖像』『ルートヴィヒ/神々の黄昏』『イノセント』など最晩年の諸作が立て続けに公開される。そんな中で『山猫』も3時間6分の完全版が再公開。81年、岩波ホールでのこと(ただしこのときもワタシは見ていない)。その頃、シネマスクエア・レック(進富座の前身)でも『夏の嵐』が上映されているので、ヴィスコンティ・ブームの一端ぐらいはご記憶の方も多いはず。
さて、『山猫/イタリア語・完全復元版』である。これを見てみると、ヴィスコンティの大きな転機は、日本でのその後のヴィスコンティ評価を決定づけた『地獄に堕ちた勇者ども』や『ベニスに死す』からではなく、すでに『山猫』に始まっていることがよく判る。
まるで動く美術館さながらの贅を尽くした画作り、時代の潮流の中で没落していく貴族階級への葬送曲とでも形容したい荘厳な雰囲気・・・・。特に“老い”や“死”は、これ以後の彼の諸作の中で大きな主題になっていく。製作当時、ヴィスコンティ五十七歳。
バート・ランカスター演じるシチリアの貴族(公爵)は、舞踏会場面の最後あたり、ひどく疲れた様子を見せる。椅子に腰掛けようとするとき、手摺りを掴んでひどく大儀そうに腰を落とす。彼はその前に、甥(ドロン)の花嫁(カルディナーレ)とワルツを踊っている。
その舞踏会の場面はほとんど一時間近くあるのだけれど、筋書き上ほとんど無意味とも思えるこの長さ、悠揚たる舞踏会の場面は、公爵の疲労を描くためにこそ必要な長さではなかったか! これは若い人にはちょっと判らない感覚と思う。
公爵に忍び寄る“老い”と“死”の影。そして貴族階級の黄昏・・・・。この後、ヴィスコンティ作品すべてに共通する主題は『山猫』に始まっている。