『いつか読書する日』

最近の日本映画のひとつの傾向として、大袈裟な身振りや怒号、感情を露わにする表現が昔ほどではなくなってきたように思う。進富座上映作品では、たとえば『さゞなみ』『船を降りたら彼女の島』『犬猫』や『帰郷』など、登場人物は決して泣き叫んだり怒鳴ったりせず、皆おしなべて静かな口調で穏やかな表情をしているのが特徴だ。
最近の日本映画のこうした傾向は、七十年代前半以降に進んだ小津安二郎への再評価が大きく影響しているのではないか、と思っている。
小津映画では、長年のつれあいが亡くなったからといって泣いたりわめいたりはしない。何事もなかったように「今日も暑うなるぞ」などと言っている。観客はその台詞を聞いたとたん、言葉にならない登場人物の心の奥底に思いをめぐらし、感動してしまう。
小津は、人の心の動きをあからさまに表現したりせず、逆に隠すことによってその奥に横たわる深いエモーションを表現しようとした。小津再評価の時代に育った映画人には、こうした小津の表現方法に少なからず影響を受けた人々がいるように思える。『いつか読書する日』の緒方明監督もそのひとりではないか。

田中裕子と岸部一徳、『いつか読書する日』のふたりの主人公は、終盤近くに至るまで徹頭徹尾無表情を崩さない。その抑制された表情と寡黙さが、逆にふたりの内心の葛藤の激しさを想像させ、どんなに饒舌な映画よりもはるかに雄弁にふたりのエモーションを表現していると思う。
冒頭の二十数分にわたる描写は特に素晴らしい。
映画は、少女(大場美奈子)が作文コンクールで一等賞になった、という短いプロローグで始まり、続いてカメラが未明の坂道を自転車で下ってくる中年女性(現在の美奈子=五十歳)を捉える。
彼女は毎朝牛乳配達の仕事をやっている。坂道の多いこの町では、軽トラに積んできた牛乳瓶を坂道の下に置いておき、それを美奈子が一軒一軒徒歩で配達する。ハアハアという彼女の息遣いが聞こえてくる。町はまだ眠っている。ある家の玄関先では、すでに老人が美奈子を待ち構えていて、牛乳瓶を受け取るなりその場で飲み干す。
ある坂道の下で、美奈子は「よしっ」と気合いを入れる。坂道の上にある家の牛乳箱に新しい瓶を入れる。その家に住む高梨はたった今目を覚ましたところ。病床の妻が、毎朝決まった時間にやって来る牛乳配達のことを高梨に語る。妻は末期癌の痛みで眠りが浅く、そのために牛乳配達が毎朝同じ時刻にやって来ることに気付いている。病臥すること以外何もすることができない彼女は、日々のどんな些細な音や出来事にも鋭敏になっている。毎朝同じ時刻に高梨の家に牛乳を配達するのは、美奈子が律儀な配達員だからなのか、それとも“ある意志”の現れなのか、映画は一切説明しない。
高梨は牛乳をひと口飲むと残りを捨ててしまう。妻の病状が、もはや牛乳さえ口に出来ないほど悪化しているのか、配達させている理由が他にあるのか、高梨の表情からもそれは読みとれない。
出勤する高梨が、出がけに戯れ句を詠んだりするカットがあった。妻の介護生活が長引いていることをうかがわせるカットだ。人間、いつもたったひとつのことを考え続けているわけではない。高梨が妻のことを忘れている瞬間があっても不思議はないし、罪でもない。美奈子に対する高梨の思いもまた同様である。
路面電車の停車場、高梨の背後を自転車に乗った美奈子が通り過ぎてゆく。高梨は彼女を避けるように左から右へと視線を漂わせる。交わることのない視線。それがかえってふたりの間にあったものを強く想像させる。
観客は、ここまでのおよそ二十数分間で、ふたりの間に起こる何かを予感し、心のざわめきを感じ始める。わずかの台詞と坂道を捉えた見事なカメラ、そして夜明けの空気まで映し出す映像。まったく見事というほかなく、舌を巻いてしまう。

美奈子は十五才のときの作文で、自分はこの町にずっと住み続けると書いている。ある意味でこの映画の主役は、坂道の町そのものであり、そこに住むひとびとの息遣いとも言える。町と登場人物は皆等価であり、美奈子と高梨はその中の点景でもある。
登場人物のひとり、美奈子の亡母の友人で作家の敏子が、この物語の重要な語り部となる。彼女の構想している小説が、どうも美奈子と高梨の物語であるらしいことが示唆されている。その敏子を見ていて思い出したのが、トリュフォーの『隣の女』。
『隣の女』は、かつて恋人同士だった男女がたまたま地方都市で隣り合わせに住むことになったことから恋が再燃する物語。町でテニスコートを経営する老夫人が、ことの顛末の語り部として登場する。この老夫人はかつて激しい恋に堕ち、そのために片足が不自由になっているという設定。『いつか読書する日』の敏子も、かつて激しい恋の末にある女性から夫を奪ったという設定になっているが、こういうのを映画的記憶の偶然とでもいうのか。脚本家や監督が『隣の女』を意識していたかどうかは、訊いてみないと判らない。
『隣の女』は心中にまで至るが、『いつか読書する日』は高梨の死で終わる。もし、ふたりが幸福な余生でも送る展開だったなら、高梨の亡妻に同情が集まったかもしれない。心中すれば、あまりにもドラマチック過ぎる。だから高梨の死は、作劇上当然の結末と言える。その後もひとりぼっちで長い時間を送ることになる美奈子の人生に思いを馳せることで、観客はさらに深い余韻に浸ることができる仕掛けになっている。まったくお見事な脚本。

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