『好きだ、』

九月の頃なのだろうか、いくらか湿気を含んだような風が吹き抜ける土手の向こう、低い山並みを薄い雲がゆっくりと流れてゆく。主役の女子高生・ユウ(宮崎あおい)と同級生のヨースケ(瑛太)は、放課後に土手でよく一緒に過ごす。ヨースケはいつも下手なギターで同じフレーズを繰り返し弾いている。
しばしばカメラは、ふたりの姿を土手の下からあおるように捉える。その姿は、ほとんど空に浮かんだように見えるので、地球上には彼らしか存在しないようにさえ見える。
『好きだ、』は、何より“空”の映画と言える。その空はたいてい低い雲に覆われていて、幾分どんよりとはしているものの、決して暗く重いわけではない。その空は、まるでたったひとことが言えないふたりのためらいと吐息を表す句読点のように、しばしばスクリーンに現れては消えて行く。
雲といい、山といい、また少女と少年が思いを告げることなく別れ都会で再会する物語である点が、侯孝賢(ホウ・シャオシエン)の『恋恋風塵』を思い起こさせる。
ほとんど台詞らしい台詞を発することもなく、揺れ動く少女の内心を表現した宮崎あおいの演技がまことに素晴らしい。撮影は03年の秋に行われたそうで、多分『NANA』の撮影は本作の後だと思うけれど、『好きだ、』の彼女を見れば『NANA』での演技は未熟ぶりをわざと偽装したものだったことが一目瞭然。それくらい『好きだ、』の宮崎あおいは素晴らしい。姉のセーラー服を着て登校する場面、ヨースケに姉を会わせようとする場面など、切なくも屈折したユウの心理を実に巧みに表現する。
彼女の十七年後を演じるのは永作博美。彼女も、姉を植物人間にしてしまったトラウマから抜け出せない、影のある三十四歳の女性を魅力的に演じる。再会したヨースケと駅で別れる場面が何とも切なく、大人の恋のつらさを感じさせて、この人もまさに魅力的な人物を造形する。『空中庭園』とはまったく違う役どころで演技者としての幅が広い。
三十四歳のヨースケを演じるのは西島秀俊。この人についてはもはや多言を要しない。今やインディペンデント系の映画に欠かせない役者。一見地味な普通の男前で、柔和な印象があるけれど、多彩な役柄をこなす。
西島秀俊が去年主演した映画に『帰郷』という作品があった。東京に住む西島が一時帰郷し、かつての恋人(片岡礼子)と久々に再会する、という映画だったけれど、『好きだ、』はこの『帰郷』の“東京篇”のようなところがある。つまり、かつての恋人同士が故郷で再会したのが『帰郷』、東京で再会したのが『好きだ、』。この二作は姉妹のように似たところのある映画なのである。
もうひとつ。秘めていた心の内を、十七年後に伝えたのが『好きだ、』なら、三十数年も経ってようやく打ち明けたのが田中裕子と岸部一徳の『いつか読書する日』。『好きだ、』が秘めたる恋の“青年版”なら、『いつか読書する日』は“壮年版”。そうやっていろんな映画を思い出すのも、楽しい。

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