『黒澤明vs.ハリウッド』

黒澤明の『トラ・トラ・トラ!』監督解任事件は、日本映画史上の謎である。当時のキネマ旬報編集長・白井佳夫氏によるルポなど、事件の真相に迫ろうとする試みがまったくなかったわけではないが、物的資料が国内にあまり残されていないことや関係者の多くが沈黙を守ったまま鬼籍に入ってしまったこともあって、今ひとつよく分からないことが多かった。
ワタシの個人的な考えでは、日本映画界の至宝・黒澤の名誉がいたく傷つけられることを畏れた映画業界が、あまり深くこの事件について詮索しようとしなかったことも真相究明の足かせになったのではないか。
トラ・トラ・トラ!』降板後に製作された『どですかでん』が不評・不入りで、その直後に黒澤が自殺未遂を起こしてからというもの、明らかに失敗と思われる作品に対してさえあからさまな批判を差し控えるなど、彼の晩年の諸作に対するほとんど無条件の賞賛、黒澤監督への個人崇拝がエスカレートしていったことを思うと、批評家たちを含めた業界全体の、黒澤の名誉を守ろうとする強い意思を感じざるを得ない。
黒澤明vs.ハリウッド』は、日本映画界では物的証拠がなかなか得られず、そのために謎に包まれていた黒澤明の『トラ・トラ・トラ!』監督解任事件を、アメリカ側に残されていた豊富な資料と関係者の証言によって検証・再構築したドキュメント。
著者の田草川弘氏は、昨年公開された『グッドナイト&グッドラック』の主人公であるCBSのニュース・キャスター、エド・マローの研究者で、黒澤監督解任事件当時は、日本映画研究者として知られるドナルド・リチー氏の推薦で黒澤プロダクションに雇われ、黒澤、小国秀雄、菊島隆三による『トラ・トラ・トラ!』の日本側脚本と20世紀フォックス側脚本の相互翻訳を任されていた。
著者は得意の英語を駆使して、アメリカに残された豊富な資料の調査と関係者へのインタビューを敢行し、詳細かつ客観的な検証を行っている。本書が黒澤のキャリアのいわばダークサイドを扱いながらも決して暴露的にならないのは、著者がたとえわずかの期間ではあっても黒澤の人となりに直に触れ、彼の人間的魅力に大いに惹かれたからであろう。だからこそ、なおのこと真実を突き止めたいという真摯な筆致を感じる。
本書の圧巻は、何と言っても、20世紀フォックス側に残されていた撮影日報をもとに再現された東映京都太秦撮影所における黒澤の言動。それに、三人の医師が作成した黒澤の健康状態に関する診断書をもとにした黒澤の当時の精神状態に関する件である。
20世紀フォックス側は『トラ・トラ・トラ!』の製作に当たって、日本部分の撮影を黒澤プロダクションに下請けに出したに過ぎないと考える(実際、フォックスと黒澤プロの間の契約は問題なくそういう内容になっていることを著者は資料によって確認している。)。いわば黒澤はハリウッド・メジャーの雇われ監督に過ぎない。すべての不幸の始まりは、これに対して黒澤が、自分が全面的に作品に責任を負う総監督であり、編集権も当然留保していると考えたことである。
作品の全面的な責任者というとんでもない思い込みと誤解に駆られた黒澤は、自身が心酔していた山本五十六役をはじめ、主要な海軍将兵役の大半に元海軍兵学校出身者たち素人を起用。そして、軍隊式の規律を用いて撮影を敢行するなど、フォックス側にとっては暴挙としか考えられない行動に出る。同時にスタジオでは、暴言、暴行、突然の予定変更や撮影の中止など奇言奇行が毎日のように繰り返され、暴君のごとく振る舞い始める。これに反発した東映京都太秦撮影所のスタッフはとうとうストライキに突入し(『羅生門』での助監督・加藤泰との衝突、加藤の辞任を思い起こさせる)、撮影は大きく遅れてしまう。
京都の撮影所という、いわば他流試合で完全に孤立してしまった黒澤は毎晩のように酒を浴び、明け方まで泥酔しては翌日の撮影に支障をきたす、という悪循環に陥る。撮影所での黒澤は常軌を逸した狂人、暴君そのものに映る。京都大学の精神科の医師は、診断書を書き入院を勧める。
羅生門』や『七人の侍』を見て監督に起用したフォックス社長のダリル・F・ザナックや日本側撮影部分の製作担当者エルモ・ウィリアムズ(アカデミー賞編集賞受賞者。のち『フレンチ・コネクション』で作品賞も受賞。)は、芸術家としての黒澤を尊敬し、彼の意向に最大限の尽力を惜しまなかった。しかし、撮影遅延が十日目を迎えた時点で、契約書にのっとってついに黒澤を更迭。ただし、ふたりは日本映画界と黒澤自身の名誉が損なわれないよう配慮することを忘れなかった。
フォックス側の配慮にもかかわらず、黒澤は更迭の理由を理解できないままだった。その原因は黒澤プロダクションのプロデューサーにある。彼は英語に堪能であるというだけの理由で、フォックスとの契約など一切の事務と資金の管理を行っていたが、彼の無責任と背任、そして契約書をろくに読みもしなかったプロダクション社長としての黒澤のマネジメント不足が、フォックス側と黒澤の不幸な関係の根本原因になった、と本書は結論づけている。偉大な芸術家、必ずしも卓抜な経営者にあらず、というわけである。
詳細な資料を駆使したエキサイティングなドキュメント。黒澤ファンにも、そうでない方にもぜひともお勧めしたい一冊。

『トラ・トラ・トラ!』その謎のすべて 黒澤明VS.ハリウッド

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グッドナイト&グッドラック 通常版 [DVD]

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