『アヒルと鴨のコインロッカー』

東京近郊から大学に入学するために東北・仙台にやってきた青年(千葉県出身で東北大学の学生だった原作者がモデル?)が、風変わりなアパートの隣人に書店強盗を持ちかけられる、という意外な発端から始まるこの映画。盗んだつもりの広辞苑が何と広辞林だったり・・・・と、なかなか笑える展開だと思っていたら、アパートの隣人が実は外国人留学生で、彼は二年前に思いを寄せていた女性を失っていた、という儚くせつない青春物語。
中村義洋監督は『刑務所の中』『クィール』の脚本家だそうな。脚本家出身の監督といえばビリー・ワイルダーやジョセフ・L・マンキーウィッツを代表格に名匠・巨匠が多いけれど、一方では仕掛けや展開に凝るあまり、中身がついてこない、といった落とし穴にもハマりやすい。
アヒルと鴨のコインロッカー』は、二年前と現在が行きつ戻りつ展開。その構成力は脚本家出身の監督らしく、まことに巧妙でミステリアスなのだけれど、どうもひっかかる。
可憐な女性と男たちの友情とも愛情ともつかない微妙な関係を描くのなら、たとえば『冒険者たち』(アラン・ドロンリノ・ヴァンチュラジョアンナ・シムカス共演)のように、一服の清涼剤のような、後味の良い映画にならなかったものだろうか。
まず、ペット殺しという出来事がなんとも陰惨。その事件の主犯格への報復手段も陰湿。さらにもうひとつ。大学生をはじめ本作に出てくる仙台の人たちがどうしてあんなに外国人留学生に不親切で冷淡なのか、理由がよくわからない。いまどき田舎町でもこんなに排他的ではないと思うが・・・・。
老婆心ながら、残忍なペット殺しといい、外国人に冷淡なひとびとの態度といい、舞台になった東北仙台の人たちはこの映画をどう見ただろうか(ラスト、新幹線の中で主人公は、仙台名物牛タン弁当にすら手を付けず眠っている!)。本作を見て仙台に好印象を抱いたり出かけたいと思った人は多くないのではないか。もし、ワタシの出身地がよそ者にこういう風に描かれたとしたら、ワタシはきっと怒り出す。
主人公が、映画の最後に帰郷する理由もとってつけたようで、このあたりにも脚本家出身監督のテクニック偏重を感じてしまう。
一見、デリケートな青春スケッチ、賛歌風に見えるが、本当のところは、他者(たとえば仙台という街やそこに住む人々)に対する無神経さ、鈍感さが顔をのぞかせる映画。なかなか世評は高いようだけれど、自分のことにしか思いが至らない当世気質を反映しているようで、そんなあたりがワタシには逆に興味深い。