『二十四の瞳』

夕食を済ませてテレビを点けたら、ちょうど『二十四の瞳』を放送中だった。三分の二をすでに過ぎたあたりだったのでチャンネルを変えようと思ったが、ついつい引き込まれて最後まで見てしまった。再見は三十数年ぶりのこと。
瀬戸内海が眺望できる料理旅館の一室。高峰秀子扮する大石先生を囲んで、分教場で彼女の教え子だった七人が久しぶりに集まった場面。七人の中には、戦場で負傷し今は目が見えなくなってしまった田村高廣もいる。彼は、分教場時代に大石先生と十二人の同級生たちが並んで撮った記念写真を指でなぞりながら、目が見えなくともこの写真だけは見えると呟く。それを聞いた大石先生が思わず涙をこぼす。つられて同級生たちもすすり泣く。見ているこちらもつい目頭が熱くなってしまう場面である。
十二人の子供たちは分教場を巣立ってから皆それぞれに苦労を重ねた。おりしも日本は十五年戦争の真只中。男の子たちは戦場に駆り出され、戦死、あるいは傷ついて帰還する。暮し向きも楽ではなかった。貧しさゆえに修学旅行に行かせてもらえず、奉公に出された女の子もいる。彼らは皆、戦前から戦中にかけての長い年月、それぞれに過酷な時代を生き抜き、苦労に耐えてきた。大石先生自身も夫を戦争で失っている。
久しぶりの再会を果たした彼らは、そんなこれまでのお互いの苦労を思いやり、辛かった暮し向きのことや、肉親、同級生を失った悲しみを共有することで、堰を切ったようにお互いがお互いのためにさめざめと泣く。
おそらく当時の観客ひとりひとりにとっても、大石先生や十二人の子供たちの苦難に満ちた人生は他人事ではなかったに違いない。この作品が製作された昭和二十九年当時、日本はまだまだ貧しく、戦争で家族や友人を失ったひとびとの心の傷はまだまだ癒えていなかった。観客は、自らの体験を大石先生や十二人の子供たちのそれに重ね合わせることで映画の世界と一体化し、一緒になって涙を流した。
田村高廣らが、軍歌が唱和される中、出征してゆく場面も忘れがたい名場面。勇壮な歌詞とは裏腹に、田村たちの目は不安と悲しみに沈んでいる。カメラは別れを惜しむように彼らの表情をじっと捉える。そこには国家の大義に踏みにじられる若者への、監督・木下恵介の限りない共感と愛情がにじみ出ている。
登場人物に対する木下恵介の視線と観客への思いやりは、まるで母親のように優しく温かい。登場人物や観客とともに涙を流そうとする木下の、優しく温かいまなざしによって『二十四の瞳』は日本映画史上もっとも感動的な映画のひとつになっている。
木下は、戦時中に撮った『陸軍』で、出征する息子の隊列に母親の田中絹代が無言のまま延々と追いすがる場面を描いた。この場面が時局にふさわしくないという理由で木下は軍部から睨まれることになったが、思えば、子供たちに対する木下の母親のような愛情は、戦中・戦後を通じて変わることがなかった。
二十四の瞳』公開から五十年余り。今、木下恵介の作品がひとびとの目に触れることの意義は大きいと思う。

二十四の瞳 [DVD]

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「二十四の瞳」~イメージアルバム 懐かしき唱歌の調べ~木下恵介の世界

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